2004年10月23日、午後6時少し前、さいたま市の体育館にいて、ランニングマシーンでトレーニングしていた時、左右に身体が妙にぶれるのを感じた。変だなとは思ったが、走行面のベルトの締めが甘いからだろうと考えた。トレーニング室には数人の男性しかいなかった。その直後、建物がビジッと音をたて大きく揺れ始めた。これは明らかに地震だ。鉄のサッシ窓にかかったブラインドがカタカタ音をたてて、触れあっている。携帯電話が「しばらくお待ち下さい」と表示したままになっている。
急いで着替えて受付を通るときに、係の女性が「新潟中越地方で強い地震があったようですよ。」と教えてくれた。「中越なのか。どのあたりだろう」を不安に思った。中越地方がどこにあるのか知らなかったからではなく、昨日の夜まで麻酔業務で南魚沼の病院にいたため、当地の人々の顔と山河や田畑が浮かんできたからである。
10月28日、新幹線が不通のため、越後湯沢まで病院の車に迎えに来てもらって、国道17号線を通って旧大和町(現南魚沼市)浦佐に入った。23日は大和町でも翌朝まで停電、漆黒の闇にかがり火が点々とし、天の川が見えたという。震度6強の余震が三回あり、地震の惨状は一夜明けた24日頃から、徐々に明らかになったという。住民は赤い札(避難命令)を張られた住宅からは避難しなければならなかった。
病院近くの避難場所に指定されていた体育館に診察に行く。町の職員が受付をしている。血圧計と応急薬品箱をもって、保健師と組みになり館内を回る。28日夜は、被災者と救援者でいっぱいの駅前ホテルに宿泊した。
29日は、濃霧そして秋一番の冷え込みであった。朝5時45分、大浴場で入浴する。洗い場に二人の男性が座っている。どちらか一人が長い溜息をついたのが、がらんとした浴室に響いた。
テレビの画面の上4分の1と右4分の1が地震関連情報用のテロップになっていた。17号線川口のトンネルが通行止め。小出2.2℃。明日より雨。37市町村の9万9千人が避難。120を超える自治体から支援物資。妊婦は厚生連南魚沼病院に連絡下さい。在宅酸素療法中の方の酸素切れには、臨時診療所を小千谷病院玄関脇に24時間開設中。小千谷高校でも診察、医療チーム巡回。車中泊の人へ宿泊施設、仮設テントへの移動を勧めているが、なかなか進まず。車中泊の人の死も相次ぐ。肺塞栓か。長岡市、休校は11月2日まで。車中泊の43歳、83歳女性死亡。腰痛、血圧の上昇、疲労、不眠、余震の不安。