夏、2007年7月23日午前6時、医療チームは病院を出発した。明け方から雨が降っていた。コンビニエンスストアーで、予約してあった食料と飲料と氷を受け取り17号から一村尾、後山に向かった。ひと時、雨は強く降ったが、霧が濃くなり、やがてあがった。山道に黒い路面のカーブが続く。
252号ルートで十日町を経て、柏崎市内に向かう。161号に入る前あたりから、全壊し傾いた家屋が目立つようになる。歩道にしわが寄ったようにめくり上がり、ブロックや大谷石の塀が崩れ倒れている。アスファルトが緩やかに凹凸を繰り返しているようであり、センターラインが左右に蛇行しているように見える。路肩と歩道の敷石の間に段差ができ、側溝の配水管が割れている。市街に近づくにつれて、補修工事のための片側通行が多く渋滞している。電気、水道、ガス工事用車両が多く、ナンバーから災害支援と派遣のため各地から来ていることがわかる。
長浜の交差点を左折して商店街に入る。シャッターや鉄骨がゆがみ、ガラスや看板が割れ、赤い紙が張られた店舗が多く見られる。柏崎小学校の前を左折して、災害医療本部のある「元気館」に向かう。本部のチームの到着をつげ、配置、巡回、診療および報告(ミーティング)の指示を受ける。新潟県保健課の職員Aさんが陣頭指揮をとっていた。
23日は16チームが参加していた。大和病院救護班は2チームのため、南部、中川、別山の各コミュニティセンターおよび、二田、内郷(ないごう)小学校の避難所を受け持った。同じ室内に、医師会と新潟大学が診察用のコーナーを持ち常駐していた。スクリーンで覆われた簡易診察室もあり、道路側には医薬品や医療材料が山積みになっている。量、質ともにかなりのものがある。県職員は一週間をめどに派遣されているため、Aさんも顔が蒼黒くむくみ無精ヒゲがはえ、疲労が目立つ。妙に行動が鋭角的で、声色の高音部がめくり上がるのが気になる。「今日で交代になるんですよ」といいながら走り回り、電話の対応に追われていた。
午前の巡回診療に出発する。「元気館」を出て、再び8号から161号に入り刈羽村に向かう。疎林の海岸寄り、送電線が収れんするあたりに原発がある。関連施設の一部が松林の透き間から、垣間見られる。鉄塔が田や丘陵や道路をまたぎ渡って、広がっている。
北陸道の西山インターチェンジ入口を過ぎ、礼拝(らいはい)の交差点を左折し、赤さびた越後線を渡り、出雲崎方面へ向かう。避難所になっている地域のコミュニティセンターも小学校も、日中は仕事や被害をうけた自宅の後片付けのため、数人から数十人の高齢者と子供たち(夏休み中)が残るのみで閑散としている。大きな避難所には、保健師が常駐していた。福岡市、新潟市、仙台市から一週間単位で派遣されていて、訴えや状態が気になる避難者を把握し記録しようとしていた。
高血圧、糖尿病、喘息、うつ病などのコントロールが不良になった方が目立つ。作業の増加と環境の変化により、ほとんどの方が腰痛、膝関節痛、肩関節痛など、どこかの疼痛をもっている。内郷小学校には、宇都宮地対艦ミサイル部隊が派遣されていた。自衛隊員はたんたんと仕事をしている。「非日常の生活」を日常としているからであろう。直径1メートルの大きな使い込んだ鉄釜を、ゆうゆうと洗いながら、食事の後片付けをしていた。巨大な背の高い緊急車両の後方に、洗濯ロープがわたり下着の類が干されていた。
以下の、いくつか気づいた点を列記する。
1)救護班の編成は4人チームが望ましい。またそのうち一人は、次チームの編成に重なることが望ましい。
2)中途半端な診断はしないほうがいい。例えば、避難所に「すこし下肢静脈血栓ができかけていますね。」とある大学のチームに指摘された人がいた。しかし診断だけで、その後の処置や治療に関して「わかりやすいアドバイスがなかった。」ため、本人は非常に不安になっていた。
3)市販薬(援助品)ですむ場合はそれを使用する。医薬品を無理に処方しない。継続的な治療が必要な場合は、近医受診をすすめる。
4)高血圧手帳を配布する。普段、正常血圧の人も疲労や環境の変化で、血圧が上昇している。朝夕、測定し記載することを指導する。
5)睡眠薬や入眠薬の需要が大きい。しかし、どこまで対応していくかは難しい問題である。
6)保健師との連携が有用である。避難者のなかで患者をピックアップするのに、常駐している保健師の観察が正確で有用である。