私は農芸化学科を卒業後、農業試験場作物部技師として働き、その後、思い立って医者となった。大学病院で研修後、新潟県南魚沼郡のコシヒカリと蛙の声に囲まれた市立病院手術室で働いた。農業をある程度かじって、医療の世界に入門したようなものだ。
宮沢賢治には「植物医師」という郷土喜劇(演劇台本)が残されている。しかし、賢治は、農業技術者は「植物医師」であるべきだと思っていなかった。時は1920年代、場所は盛岡市郊外、登場人物は爾薩待(にさったい)という怪しげな開業したての植物医だ。その県庁耕地整理課役人だった「医師」の農民に対する態度と言動は、現場の期待から大きく外れているだけでなく、農民にとって「科学的」に有害にさえなっていた。
「はあ、おりゃの陸稲あ、さっぱりおがらないです。この位になって、だんだん枯れはじめです。なじょにしたらいが、教えてくなせ。」という農民に、顕微鏡による観察から「立枯病」という診断をつけて、亜砒酸を処方し、相談に来た全ての農民の圃場で「陸稲さっぱり赤ぐなって枯れでしまったます。」という状態にしてしまう。激しく糾弾されるもものの、「じゃ、あんまりそう言うなじゃ、人の医者だて治るごともあれば、療治後れれば死ぬごともあるだ。あんまりそう言うなじゃ。」と許してもらう。
これは、郷土喜劇という形をとりつつ、「農業技術者は植物医師ではだめだ」という賢治の誇りと理想を表現したものかもしれない。
確かに農業と医療は似ている。両者とも、科学性を根拠にもしていることを語りつつ、いつも<純粋な科学>にコンプレックスをもち、社会や政治や経済に振り回されている。しかし、人間が生きていくのに必須なものだから、格好つけてはいられないのである。土まみれ、汚物まみれになりながら、その理想はいつも現場にしかない。そういえば、農業も医療も多く語る人は、現場から遠く離れた人ばかりだ。現場から遊離した瞬間にその存在意義を失う。
北大農学部を卒業して、医師になった先輩はどれ位いるのだろう。農学部での勉強、農業技術者としての経験が直接役に立つようなことはないだろうが、他人に遅れて医者になった分、無駄にしてたまるかとやはり思う部分は今もある。
農芸化学科土壌学講座で卒業論文の実験中、岡島秀夫教授の言葉で、今も頭の中に去来するものがある。<多様なヘテロな系における動的平衡>がそれである。一瞬の判断を要求されるとき、患者さんの容態が急変したとき、その言葉が頭をかすめる。一瞬自分を突き放してみる。狭い意味では、試験管のなかの実験系、広くは私たちが生きていること自体がまさにヘテロな系における動的平衡であろう。私たちは、意識するとしないに関わらず、ある危うさのなかで奇跡的な平衡を保っている。平穏な日常の皮一枚下は、カオスに満ちた非日常の奈落である。
農芸化学科は今はない。私が、農業試験場で担当した試験品種も消え去ってしまった。私はただ、農芸の「藝」という字が消えたことを惜しむ。芸(アート)という字を無くしたことで、失ったものの大きさを思うのだ。もともと医学も「アート・オブ・メディシン」と呼ばれていた。ウィリアム・オスラー(1849~1919年)は、「医学はサイエンス(科学)に基礎をおくアート(技)である」と述べた。「サイエンス」と「アート」の接点に正に農学もある。また、そこに、「誇り」があると私は思う。(1998.8原記、2015.10.5改)