「後世への最大遺物」は、明治27年(1894年) 、内村鑑三が行った、キリスト教夏期学校での講演です。この年は、日清戦争宣戦布告の年でもあります。その後、大日本帝国は日露戦争へと、富国強兵の道を進みはじめたのです。

 内村鑑三は、明治10年(1877年)、17歳で札幌農学校に第2期生として入学しました。2011年の東日本大震災後、「後世への最大遺物」を、ひさしぶりに読み直して内村鑑三の言葉がストレートに響きました。初読が、高校2年生の頃ですから、40年以上経ったことになります。私はその後、北海道に渡りましたが、今考えると、その本の影響がなかったとは言えないと思います。

 「この世の中を私が死ぬ時は、私の生まれた時よりは、少しなりともよくしていこうではないか。」この明快にして深い思いが、内村鑑三の言動と行動の基盤となっているように思います。

 「金をのこすものをいましめるような人は、やはり金のことにいやしい人であります。」この言葉も、今の私には、滲みるように響きます。内村鑑三は、後世にわれわれが残すべきもので、大切なものの一つに「金」があると、講演会の本題を始めています。あたりまえのようで、また「世俗的である」と誤解を生みそうで、キリスト者としてなかなか言い切れることではありません。次に「事業を起こす」こと、そして次世代に「思想を残すこと」、最後に、後世への最大遺物とは「勇ましく高尚なる生涯であると思います。」と締めくくるのです。

 ところで、この講演の4ヶ月後、内村鑑三はという英文の本を出版しています。この本をもとにして、明治41年(1908年)に、邦訳「代表的日本人」が出版されました。
「代表的日本人」には、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人が取り上げられています。しかし、邦訳「日本及び日本人」の記述では、西郷隆盛と日蓮の部分に、特に力を入れて書いていることがうかがわれます。西郷隆盛は「新日本の建設者」であり、日蓮は国難を憂う仏僧としての「宗教者」であると言えるでしょう。

 内村鑑三は、明治維新について、次のように記しています。
「1868年の日本の革命は世界史に一点を画したものと私は思う。なぜなら、これを機として、はっきり質の違った二つの文明を代表する民族が、互いに尊敬し合う交際にはいったのであり、その結果、前進的な西洋は無秩序な前進を食い止められ、回顧的な東洋は、よどんだ眠りから覚まされたからである。」
 また、この革命は、「大西郷」を欠いては決してなされなかった、と内村鑑三は評価しています。同時に、その行動の精神的な原動力「スピリッツ」になったのが、「キリスト教に似た」王陽明の学問であったとしています。

 日蓮には、外国が日本を襲ってくるという「国難」にあたり、「行動する宗教者」としての、また無教会主義を唱えたキリスト教徒としての、自分の原型を見たのではないでしょうか。次のように、書き残しています。
「日蓮を罵倒している現代のキリスト教徒には、自分の聖書がほこりをかぶっていないかよく見ていただきたいものだ。毎日聖句を口にしていても、その教えを熱心に守っていたとしても、十五年もの剣の圧力や流刑に耐えられるだろうか。人びとに受け入れてもらうために天から遣わされたとしてもそのために人生や魂を捧げられるだろうか。」

 ひるがえって現在、「歴史的な文明の転換点」とか、「最大の国難」という言葉が語られ、報じられない日はありません。しかし、長い歴史を振り返ってみれば、転換点になかった時代や、国難に直面しなかった世代はなかったのではないでしょうか。
 今回、大震災と原発大事故で鮮明となったことは、日本の将来にとって必要なのは、優秀で有能な「組織人としてのエリート」ではなく、ましてや「傑出したリーダー」でもなく、日常的に泥臭い努力を続ける強靭な精神と肉体を持った「独立した生活者」である「個」を確立することだと考えます。

 「この世の中を私が死ぬ時は、私の生まれた時よりは、少しなりともよくしていこうではないか。」この内村鑑三の言葉が、その出発点だと思います。(2016.1.11)