朝、指先に針を刺しただけで、心は動揺し、一日の気分は暗くなります。私たちの心と体は、はっきり別れたものではなく、お互いに影響を与えながらいつも動いています。ことさら、体と心を意識しないとき、私たちは健康であるといえるかもしれません。

 今、健康を害している人、健康であると自認する人、だれも健康を望まない人はいないでしょう。しかし、健康とはどんな状態を言うのでしょうか。日々なんの憂いもなく、体にも心にも、苦しみも痛みも感じないことでしょうか。ちょっと違う気もします。仮に病気でない状態だとすると、反対に病気とはどんな状態をいうのでしょうか。これでは、どんどんぐるぐる回るばかりで、永遠に答えはでそうにありません。健康そうで病気の人もいますし、重大な病気に冒されながら健康な人もいるというしかありません。これは、単に肉体の健康、精神の不健康といった問題ではありません。とすると、健康と非健康、病気と非病気の境はますます曖昧となり、相互に入り組んでしまいます。今、自分がもっている充足感・安定感を健康的と感じているなら、他人がその健康の質をうんぬん品定めすることはできないでしょう。しかし、そんな、個人的で非伝達的なものではなく、もっと肯定的・動的なニュアンスとして、やはり健康があります。

 それは、時代感覚を伴った生活感といったものではないでしょうか。今刻々世界・季節が変化していることを自分の皮膚で感じつつ、その当事者として今なにを食べ・行い・聴くべきか判断していくことを、ある種の快感と感じることのできる能力を<健康>と私は考えています。具体的には、生活に飲み込まれることのない生活者の感覚のことだと思います。それを日々更新しつつ持ち続けている人は、死に至る病のなかでも健康であります。(1999.8)